閲覧ありがとうございます。主婦のはつがカエデです。
不安・パニック障害があり、臨床心理士のカウンセリングに通っています。
ある時、臨床心理士さんから「嫌われる勇気」を勧められました。
読んでみて「自分が思っていた劣等感って間違ってたんだ」
と衝撃を受けたのを覚えています。
私も長年「劣等感」に苦しみ、ずっと「負け犬人生」だと思い込んでいました。
でもその「劣等感」が「不要な物だし、抱えている限り幸せになれない」物だったのです。
そう教えてくれたのが「嫌われる勇気」です。
この記事では本の中の「劣等感」について、自分の体験談を混ぜながらまとめてみました。
「劣等感」で苦しんでいる方には、とても心に刺さる本なので、ぜひ読んでみてください。
劣等感とは「他人との比較」から生まれる
突然ですが、あなたは「劣等感」を持っていますか?
私はかなり「劣等感」がある人間です。
心理カウンセリングで「劣等感をどうにかしたい」と問診票に書いたほどです。
そんな私に、臨床心理士さんから勧められた本が「嫌われる勇気」でした。
私が20代の頃は「自分なんてミジンコ以下の人間だ、ミジンコにも失礼だ」
なんて本気で思っていました。要するに自分を「無価値だ」って思っていたんですよね。
そして「嫌われる勇気」の主人公である「青年」の様子も、このように描かれています。
青年は幼いころから自分に自信が持てず、出自や学歴、さらには容姿についても強い劣等感を持っていた。そのおかげだろう、過剰なほどの他者の視線を気にしてしまうところがあった。そして他者の幸福を心から祝福することができず、いつも自己嫌悪に陥っていた。
嫌われる勇気 p20より引用
この冒頭で「自分と同じ苦しみを持っているんだな」って共感したのを覚えています。
友人や親戚やSNSを見ていると、こんな人がいますよね。
- Aさんは有名企業に就職している
- Bさんは子供をたくさん産んでいる
- Cさんは共働きしながら持ち家もある
- Dさんは可愛くておしゃれ(イケメンでおしゃれ)
他人と比べたら「自分なんて」と思う材料なんて、世間ではゴロゴロ転がってます。
そういう人を見ると、つい自分と比較してしまって、落ち込む原因になっちゃう。
「自分なんて」という口癖がある人は、まさに自己否定や自己卑下の癖がある人。
「他人と自分を比較」するから「出来てない自分」の価値を否定してしまいます。
だから(他人と比べて)劣等感を抱いてしまう原因となります。
人生は成長の横軸(自分軸)だけ考える
しかし嫌われる勇気のp91では、このように書かれています。
人生は他者との競争ではない(中略)
同じ平らな地平に、前を進んでいる人もいれば、その後ろを進んでいる人もいる。(中略)
誰とも競争することもなく、ただ前を向いて歩いていけばいいのです。もちろん、他者と自分を比較する必要もありません。
嫌われる勇気 p91より引用
そう、人生は「他人と比較する」ものではないのです。
皆がそれぞれ持っている「自分の成長の横軸」だけを考えればいい。
そこに「他者との上下の縦軸」を持ってくるから劣等感を感じます。
自分軸に他人軸を加えてしまうから、進む方向がよくわからなくなるのです。
なので人生では、だれよりも高みを目指す(他人と競争に勝つ)のではなくて、
自分が目指す「理想像」に向けて、前を向いて歩いていくのが大切なんです。
「理想の自分」と比較して「今の自分」は出来てないから、劣等感を感じて努力する。
それが「健全な劣等感」であり、成長の糧になる。その比較に「他人」は存在しません。
間違ってはいけないのは「他人」と比較して「今の自分」は出来てないから、
劣等感を感じて努力する。その比較には「他人」が存在します。
ですが自分は「他人」にはなれません。
性別・年齢・知識・経験・外見・環境も違う。同じ人間はどこにもいない。
なのでそもそも「他人と比較する」という事が間違っているんです。
p95では、このような内容も書かれています。
対人関係の軸に「競争」があると、人は対人関係の悩みから逃れられず、不幸から逃れることができません。(中略)競争の先には勝者と敗者がいるからです。
競争や勝ち負けを意識すると、必然的に生まれてくるのが劣等感です。
嫌われる勇気 p95より引用
劣等感ではなく劣等コンプレックスになっていないか
劣等感は「理想の自分」にたどり着いていないから、劣っている感覚を抱く。
だから「理想の自分」を目指して努力する。劣等感は成長への刺激になります。
それが本来の劣等感(=優越性の追求、向上心)です。
ですが今世間で使われている「劣等感」とは、
「どうせ自分なんて」「どうせ頑張ったところで」と、
「ある種の言い訳に使い始めた」状態の事を指しているような気がします。
つまり「理想の自分へ、一歩踏み出す勇気をくじかれた状態」です。
こうなると劣等感ではなく「劣等コンプレックス」という状態となり、
「私は○○だから、△△できない」という、自分の中で理由付けを行い、
「前に踏み出す勇気」や「努力」をしなくなります。
「劣等コンプレックスがあるので変われない」を言い訳に、
今のライフスタイルを変えようとせず、殻にこもった状態となってしまいます。
「不幸だけども慣れている」からこそ「楽」なので、変わろうともしなくなります。
不幸自慢で「優越感」を満たす
劣等感を武器に「誰よりも「特別」であろうとする」状態が不幸自慢です。
「私にはこんな過去があった、あなたには私の気持ちなんてわからない」
と「救いの手すら払いのける」ような状態です。正直、私もそんな時期がありました。
不幸自慢をする人は、本でこのように説明されています。
不幸であることによって「特別」であろうとし、
不幸であるという一点において、人の上に立とうとします。
嫌われる勇気 p88より引用
つまり不幸自慢で誰よりも目立ちたい(他者よりも優位に立ちたい)と考えている。
さらには自らの不幸を武器に、相手を支配しようとしている。
他人に「腫れ物に触る」ようにして、慎重に扱ってもらいたい。
周囲の人々を心配させ、その言動を束縛し、支配したい。
こうして「不幸を武器にした優越感」に浸っているのだそうです。
私の周りにもそういう人が2人いて、今でも「悲劇のヒロイン」を演じています。
(正直、私もそういう所あると思います…)
ですが本の中では、このようにかかれています。
自らの不幸を「特別」であるための武器として使っている限り、
その人は永遠に不幸を必要とすることになります。
嫌われる勇気 p90より引用
つまり劣等感の不幸自慢をしている限り、
いつまでも幸せ(=理想の自分)に近づくことはできないのです。
その「劣等感」はどこから来たのか?
自分の中にある「(他人と比較した時の)劣等感」はどこから芽生えたのでしょうか。
そもそも「なぜ他人と比べようと」するようになってしまったのでしょうか。
私は「親」や「学校」のような気がします。
本の主人公である青年も、このように語っています。
わたしには3歳年上の兄がいます。(中略)勉学にもスポーツにも優れ、(中略)幼いころからずっと兄と比べられながら育ってきました。
(中略)
まさしく劣等感にまみれながら生きてきたし、兄との競争を意識せざるをえなかったのです!
嫌われる勇気 p98より引用
青年のように、「劣等感まみれの」私の話も少ししたいと思います。
(私の「不幸自慢」になってしまいますが、よかったらお付き合い下さい)
母親からは「○○ちゃんはもう結婚した」「○○ちゃんはもう子供を産んだ」
「○○ちゃんは△△大学へ進学した」「○○ちゃんは…」とよく聞かされました。
そして「あんたはなんでモテないんだろうね、私なんてその年にはもう彼氏いたわ」
なんて言うのです。「他人と比べて自分は出来てない」を突き付けられた感覚です。
そして学校では「容姿・力・頭脳の優劣による支配」がありました。
私が小学校高学年の時「支配的な女性教師」が担任になりました。
今でも、顔もフルネームも「いびつに笑いながら怒っている目つき」も覚えています。
「可愛い女の子、カッコいい男の子、強気な子、頭のいい子」は何をしても許される一方、
「おとなしくて言いなりになりやすい」私は、頭をたたかれるなど体罰も受け、
皆の前できつく叱られることもありました。毎日の学校が恐怖でした。
そこで私は「可愛かったり、カッコよかったり、力や頭が強かったりする」と優れている、
私のような「可愛くなくて賢くなくて弱い人間」は劣っていると学習しました。
それから「鏡で自分の顔を見る」ことすら嫌悪感を抱くようになってしまいました。
つまり子供時代に「大人や教育者から他人と比較された」から芽生えたのかなと思います。
兄弟がいたら(兄弟と言えども他人なので)劣等感を抱く原因にもなるかもしれません。
なので劣等感の陰には「自分のありのままを愛してくれる大人」に、
愛されなかった過去があるのかもしれません。
劣等感を承認欲求で埋めようとしていないか?
じゃあこの苦しくて重い「劣等感」はどうやったら無くなるのか?
それを満たしてくれるのが「他人からの承認」…と私たちは勘違いしてしまいます。
本中の青年もこのように語っています。
他人から承認されてこそ、われわれは「自分には価値があるのだ」と実感することができる。他者からの承認を通じて、劣等感を払拭することができる。自分に自信を持つことができる。そう、これはまさに「価値」の問題です。
(中略)
劣等感とは価値判断の問題だと。わたしは両親からの承認が得られなかったからこそ、劣等感にまみれて生きてきたのです!
嫌われる勇気 p133より引用
「可愛くて(カッコよくて)、強くて、頭が良ければ」親や先生は認めてくれる。
「親や先生の期待を満たす人」になれば、私のことを認めてくれる(他人からの承認)
認められたいから「劣等感からくるエネルギー」を使って努力しようとします。
やがて「親や先生からの承認」から「他人からの承認」へと対象が拡大していきます。
ですが最初に話した通り「他人にはなれない」ですし、
本中にもあるように「われわれは他者の期待を満たすために生きているのではない」
なぜなら「他人が要求する」ことなんて、形も変わるし種類もたくさんあるから。
「他人が要求する事」全てを満たすことはできないのです。
アドラーを説くもう一人の主人公、哲人は文中でこのように語っています。
ユダヤ教の教えに、こんな言葉があります。「自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、いったい誰が自分のために生きてくれるのだろうか」と。
嫌われる勇気 p135より引用
自分の劣等感や無価値感を埋めるために、他人の承認を得ようと頑張っていくと、
結局は「他者の人生を生きる(自分の人生を生きれない)」事になり、
しかも「認められなければ延々と努力し続けなければならない」辛い人生となります。
なので、p133のタイトルにもなっている通り、
『「あの人」の期待を満たすために生きてはいけない』のです。
アドラーを説く哲人はp136で、このように語っています。
承認されることを願うあまり、他者が抱いた「こんな人であってほしい」という期待をなぞって生きていくことになる。つまり、ほんとうの自分を捨てて、他者の人生を生きることになる。(中略)
他者からの承認、ご両親からの承認が得られなければ自信が持てない。はたしてその生は、健全だと言えるのでしょうか。
嫌われる勇気 p136より引用
本来の「劣等感」を思い出そう
本来の劣等感は「理想の自分に近づくため」のものであり、
「他人になるために」劣等感を使って努力するのは「苦しみ」を生むだけです。
なぜなら「他人にはなれないから」永遠と努力し続けなければならない。
なので他人軸で生きるのではなく「自分軸で生き、前に進む事だけ」考えればいい。
なのでその劣等感は「どこから芽生えたものなのか?」
「それは誰から植え付けられたものなのか?」考えてみましょう。
そして「それは自分にとって本当に必要な価値観なのか」も考えてみましょう。
努力しても「他人になれない自分」に自己否定して、劣等感を抱き続けるのは、
永遠と「あの人たちを思い浮かべて、自分で自分をいじめている」のと同じです。
劣等感を「自分を否定するための道具」として使ってはいけないのです。
そうではなくて「自分の人生こうなりたいけど、今はここができてないな」
「理想の自分」に近づくために、今劣っている自分の「この部分」を良くしていこう。
それが本来の「劣等感」の使い方だと、私は「嫌われる勇気」を読んで学びました。
「劣等感」以外にも学べることがたくさんあります。
人生について考えさせてくれる名著ですので、ぜひ読んでみてくださいね。
まとめ
「劣等感」はとても重く、辛いものです。自分の心をえぐるような痛みもあります。
でもその劣等感は「健全な劣等感」なのか、他者から植え付けられたものではないか。
それを今一度確認してみてはいかがでしょうか。
嫌われる勇気では、劣等感で苦しみ、混沌とした人生に絶望している「青年」と、
アドラーをわかりやすく説明し「人生はシンプルである」と説明する「哲人」との、
「怒りにまみれた青年」と「優しく諭す哲人」の対話形式で物語が進んでいきます。
「劣等感」で苦しんでいる方には、とても心に刺さる本なので、ぜひ読んでみてください。